2012年03月25日

同人小説批評・第1回『*君に降りつもる感情*』(ゴーフレット)

 『*君に降りつもる感情*』の著者さきさ れね氏は、かつて漢字中央警備システムに所属していた頃から、自分の作品を「正統派」と言われることをよく思っていないと口にしていた。本人は「ひねくれている」というのだ。
 私はそれまで氏の作品を読んでひねくれていると感じたことはなかったのだが、『*君に降りつもる感情*』を読了し、初めて本人が言うようにひねくれていると感じた。一見すると『君に降りつもる感情』は、その表紙イラスト・裏表紙のアオリ文などから、男女の青春恋愛小説だとしか取れない。また、頒布前に行っていたPR活動からしても、直球勝負の青春恋愛小説であるとの告知を語っていた。
 しかし、それは盛大なフェイクだったのである。
 その実態は、主人公・ヒロトと親友である健吾の同性愛小説だったのである。
 このようなカラクリを用いた最近の代表例としては、『魔法少女まどか☆マギカ(以下、まどマギとする)』が、壮絶で血なまぐさい話であることをオンエア以降までひた隠しにしており、更に可愛らしいイラストを描くことで有名な蒼樹うめ先生をキャラクターデザイナーとして起用、ツイッター上でも脚本家の虚淵玄先生がフェイクに近い発言をしていたものが記憶としても新しいのではないのだろうか(ちなみに『*君に降りつもる感情*』のお試し版として発行された『君に降りつもる感情』は、まどマギ放送以前のものである)。
 相違点としては、『まどマギ』は3話目ですでに壮絶な話である片鱗を見せつけるのに対し、『*君に降りつもる感情*』は、最後まで主人公の独白(小説は主人公の目線で進んでいく一人称小説)の意識下においては明確な形で現れないという、徹底したフェイクのトリックが仕込まれているのである。

 最初に総括してしまうならば、ヒロトと健吾は相思相愛の仲であるにも関わらず、互いに己の感情に意識上では気付いていない。また、彼らは相手が自分を愛していることを知らないという、言うなれば“無意識下の両片思い”という状態に陥っているのである。これから、それを検証していこう。

 まず、この小説によく男子トイレに行くシーンがよく描写されるが、そこでトイレに行くと言ったヒロトの荷物を健吾が持ってあげるという描写がある。これは、因習的ヘテロセクシャルにおいて男性が女性にしてあげる代表的な行為のひとつである。その行為が行われているのが二人きりの場であることと、後に描写されるクラスメイト達の前でのシーンで彼らがさも悪友であるかのような振る舞いを見せることとの対比によって、後者が社会の目に対する一種のペルソナであることが伺える。以降も男子トイレをシチュエーションとして描く作品ではあるが、この男子トイレは、現実ではありえないまでにヒロトひとりしか存在しない空間として描かれている。つまり、“男子トイレ=ヒロトの内面の反映”なのである。また男子トイレとは、ホモソーシャルな場である。その場面で物語上重要な要素が多々出てくるということは、ヒロトにとって重要な決断が、異性に関することではなく同性のそれであるということを暗喩しているのだ。
 次に、ヒロトがポッキーを食べさせられるシーンが描かれるが、ここにもメタファーが隠されている。身動きを取れないよう健吾がヒロトを拘束し、“ポッキー=黒い棒”、つまり男性器を連想しかねないものを咥えさせるのは、健吾のヒロトに対する欲望のメタファーからくる代替行為と言える。また、それに対しヒロトが必死に抵抗するのも、そのメタファーに対して因習的価値観をもつヒロトの抵抗と考えられる。事実、健吾抜きで一夏から貰う場合、そのメタファーがないのでヒロトはまったく取り乱すことなくそれを咥えている。ヒロトが因習的価値観を強くもっている証拠は物語後半に表れている。それは、ヒロトが早く大人になる必要性を感じている、というところだ。中学校卒業に際し、現代において一般的である高校受験ではなく就職を選ぼうとしていたあたりは、特に病的なまでの義務感を読み取ることができる(そのあたり同性愛に寛容な自由主義的である現代的価値観ではなく、同性愛に不寛容な目的論的である因習的価値観にヒロトが依っていることが示されている)。それは非常に無意識的であり、それゆえ因習的社会で非難される同性愛を抑圧することもまた非常に無意識的におこなわれていることがわかる。それゆえ「無意識に束縛されていた」「仕方がないことだと割り切っていた」と(55ページ引用)いう独白の形で表出してきている。

 ヒロトが病的なまでに恋愛に対して臆病な要因を過去のトラウマとしている。だが、そこまで病的になるにしては、そのトラウマが“一般的には些細なこと”であり、誰しもが経験するレベルのありきたりな事象過ぎるのだ。なので、原因はほかにあると考えたほうがいいだろう。その原因としてもっともしっくりくるのは、因習的社会でのヒロトの同性愛感情である。このほうがヒロトのトラウマよりも現実的に考えて“恋愛を遠ざける要因”として深刻なため、ヒロトの病的なまでの恋愛回避行動に対応するものとして説得力がある。また、禁忌とされる感情を意識上で否定するというのは、ジグムント・フロイトのいう「抑圧」の心理そのものであり、それがもとで社会的不適合を起こすというのは、フロイトの精神分析に基づくとなんとも模範的なモデルなのである。
 ストーリーの中盤で、ヒロトと一夏が保健室に世話になる描写があるのだが、保健医・大森先生は“因習の圧力”の象徴として暗喩されている。なぜなら、“若い男女は恋愛すべき”とし、ヒロトに女の子の扱い方という因習的なモラルを指示するからだ。これはまさに、ヘテロセクシャルの恋愛の押し付けであり、先生という権力的立場からそれが発せられたということが、“因習の圧力”があることをより強調する。

 多く語るものというのは、最も興味を持っているものである。文中でヒロトは、健吾について不必要なまでに多く語っている。特に、“健吾が自分よりも男性的魅力がある”という趣旨のことが繰り返し独白の形で書かれていることは、ヒロトが健吾に対し好意以上のものを抱いている証拠とも言えよう。
 その後に語られるエピソードで、一夏の親友・美由と一夏の関係における問題が取りざたされるが、ここでわざわざヒロトが健吾の名前を挙げるのだ(しかも、問題提起された美由の名前より前に)。このことも、ヒロトが女性よりも健吾を意識していることの表れともいえる。また、自動販売機から飲み物を買うシーンでも、ヒロトが持つ一夏の好きな飲み物に関する記憶は、全て健吾の反応を通してのものである。つまり、この記憶の場面で見ていたのは、――同じ場面にいる一夏ではなく――あくまで健吾であるという事実が絶妙に描かれているのだ。要するにヒロトは、一夏を恋愛対象としてとらえられないだけでなく健吾しか見えていないのだ。

 ヒロトが抱える(表面的にも出している)コンプレックスとして、作り笑いが多くなり好きなものを「嫌いではない」としか言えなくなっているということが挙げられている。そんなヒロトは、楽しいときに楽しそうに笑える一夏を眩しく思っている。そして、その眩しさが自分自身に無いことに対しもどかしさと劣等感を覚えている。まさにこれは、ヒロトが健吾への好意を表すことが禁忌であるにも関わらず、一夏の立場では禁忌ではない(自分の気持ちに正直に行動することが許されている)という対比であり、それがヒロトの劣等感を作り上げているのだ。また、ヒロトは彼女に「憧れ」を感じている。これはより分かりやすく分析できる。健吾に好意を伝えることが禁忌ではない一夏の立場に憧れを感じることは自然だからだ。ヒロトがこれを解消する方法は一夏との「性や立場の入れ替わり」または「同一化」であるが、このストーリーでは後者を選択している。それが、一夏と向き合うことで本当の笑顔を取り戻すということなのだ。「同じ方を向いて歩いて行ける『二人きり』」(58ページ引用)とは、すなわち同一化のことである。それまで一夏と「向き合う」と繰り返しながらも「同じ方を向いて」とも言っている矛盾も、これで合点がいく。つまり、それまで言っていた「一夏と向き合う」というのは、「自分自身と向き合う」という意味なのだ。

 健吾がヒロトと一夏の仲を知り一夏を責めたのは、健吾が深層心理で抱く恋愛感情からくるものである。なぜなら、一夏にヒロトとの縁を切らせようとしたり、「一夏が知らないヒロトを知っている」と言って張り合ったりする行為は、友情としては度を越えた行為だからだ。健吾は、ヒロトを振り回す一夏に怒りを感じているが、それが恋愛感情からくるものであると考えれば当然の心境であるとわかる。

 終盤、校則が厳しくて髪を染められないために一夏の茶髪の地毛を妬む同級生に絡まれ彼女がひどく消沈することが、ヒロトの決意の後押しをする。これはまさに因習による社会の圧力に対し彼が真正面から立ち向かうことを象徴的に表しているメタファーと言える。
 あくまで最終的にヒロトと一夏が“擬似”彼女(彼氏)という関係になるのは、通常のヘテロセクシャルな恋愛モノからすると無い展開だが、ヒロトの本命が健吾であると考えると実に納得できる。健吾が本命なので一夏との関係は“擬似”でなければならないのだ。
 そして、物語最後のヒロトの進展が健吾にトラウマを話すこと、つまりすべてをさらけ出すということになっているのも、この話において最も重要なのがヒロトと健吾の関係であること証左となっている。

 つまりこの作品は、男女が恋愛をすべきという社会的因習に対し、同性間の恋愛的結びつき(因習側からすると擬似恋愛とでも言われるもの)を肯定するための“勇気”の話であるといえよう。
 ヒロトを苦しめるものは、まさに社会の構造なのである(父親の死、経済的不遇なども、そのことを強調する)。
 しかし、勇気を積み重ねていくこと――つまり「降りつもる感情」によって、その構造を解体することで幸せになるというストーリーなのである。

 はたしてこの作品は社会的にどういう意味をもつのであろうか。もちろん、この作品のもつ意味はひとつではないだろうが、ここではこれまで読み解いてきた内容から導き出せるひとつの意味を見てみよう。
 ロシアのサンクトペテルブルクでは去年から、LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の発言権を奪う条例が制定されそうになっている。
 また、2010年の都青少年健全育成条例改正の際、石原都知事が同性愛者をメディアから排除する意図を持っていることを発言した。
 つまり、同性愛者に対し、社会は寛容になっていくどころか排除の方向へと向かっているのだ。
 そんな状況で“日陰者として無意識に抑圧されるヒロトと健吾”を描くことにより、因習的価値観の社会がもつ暴力性を――その装丁のディフォルメされた可愛らしいとは逆に――リアルかつ鮮明に描いている。
 かつてカール・マルクスは政府の検閲を逃れるために『資本論』をわざと難解に書いたが、本作もまた、わざと主題が見えないように巧妙に隠し、同性愛者差別が強まりつつある社会へ投げかけられた現代の『資本論』なのではないだろうか。
posted by 漢字中央警備システム at 13:30| Comment(1) | ひとことネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たまに女性作家に間違われる私が、女性読者を意識した作品を描き、さらにその作品の中にBL要素も織り交ぜていた。そしてそれに気づいてしまったゴーフレットは、真実を世間に広めようとする……が!?

ネタとしてはありですね。ネタにして頂き、宣伝までして頂いて本当にありがとうございました。

おかげさまで在庫の方、残り17冊となりました。

今後共、色々な活動を通して、皆様の刺激となれるような、一読者として楽しんで頂けるような作品を作り続けて行きたいと思っておりますので、末長くお付き合い頂けたらと思っております。

真実を確かめる瞳を持つ者は、君しかいない。
読まずして語るべき言葉を持つ者はいない。

サークル「ロケット★えんぴつ」
「* 君に降りつもる感情 *」在庫、残りわずか。

文学フリマにて、漢字中央警備システムに
委託交渉中。

会場にて、多くの刺激を待っています。
Posted by さきさ at 2012年03月26日 22:35
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: